ほだかさんそう

花本ほだかによる総合学習はてな小屋。山小屋の「山荘」と「ほだかさん想」でかけている。

高校時代に家出をした話

先日某ラジオ番組で「母さんの涙」というテーマでメールを募集しておりまして。それに際して色々思い出したこと、そして今だから思うことがあり「まあ、紹介はされんでも、番組関係者の方が呼んでくださればありがたいな」という軽い気持ちで若干長めのメールを送ったところ、まさかのご紹介をいただいてしまいまして。その放送はなんやかんや色々あって嬉しいやら申し訳ないやらだったんですが、ひとまず、一応放送終わったタイミングでブログに投げようと加筆してたものがあるので載せます。ちゃんとまとめておきたかった話でもあるので。今回はそんな思い出話です。

※もし読者の方の中に件のラジオをお聴きだった方がいらっしゃればご理解いただきたいのですが、以下の内容ははてなブログの風土に合わせてかな〜り、数千字加筆したものでもちろんメールそのままではないです。あと、加筆している話は結構重いかもしれないです(スパナが笑えるギリギリのラインだと思った)。メールは、私なりに端折れるところを探して送ったつもりだったんですけどそれでも長かったのは事実で(文章構成力が弱かったということなので実は結構悔しい。非常に巧みに省略いただいてました)なんかもうほんと色々ごめんという感じでした。

以下、本文

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それは思春期ド真ん中、高校1年生の時のこと。
何かと折り合いの悪かった母と私。母は感情的で熱しやすい人で、私はどちらかというと冷淡でドライなタイプ。つまり性格が真逆だったんです。母はいつもわーっと怒鳴り散らして怒るので、それを見て育った私は何を言われてもしら〜っとしてしまうかわいくない人間になってしまって。完全に反面教師してしまってたんだと思うんですけど、こういうタイプが一番火に油を注ぐというか、とにかくまぁ、思春期頃〜大学前半あたりは関係が最悪でした。一つのお家の中で感情論と理詰めタイプがぶち当たるとね。結構大変です。

加えて、母は怒ると物に当たる方でして。幼い頃から何かとものを壊されていたんですよね。初代DSは彼女が逆パカしてお釈迦になったし、鉛筆は折れるし、本棚の中身がばーって床に散らばるし。でもまぁ、私はその様子をいつも黙ってじーっと見ている。怒鳴られても基本的に言い返さずだんまりを決め込んでしまうのです。「なんで何も言わないの!」って余計に怒られるんですけど、冷静じゃない人に冷静に言葉を返してしまうと気を逆撫でするのは感覚でわかるし、そもそも私が何かして、もしくは何かが足りなくて怒られている→制裁に自分の持ち物が破壊されている、という図式が小さい頃から組み上がってしまい若干の納得もあって、とりあえずその瞬間をやり過ごせば終わりがくるな、という思考になってしまっていたんです。根本的には自分が悪いと思う、と。だからその罰を甘んじて受ける、と。とはいえ、自分の大事なものが殺されているようで騒ぎが終わると部屋で一人泣く。そういう繰り返しを経て大人になっていったのでした。(こうやって書いておいて、正義感の強い方に「それは虐待では?」とか言われると納得いかないのが子どもというものであります。家族に関する心ってめちゃくちゃやっかいですよね。ひとはひと、うちはうち、です。私も辛かったけど、母は心だけに抑えきれないほどもっと辛かったんだと思うし、当時の私が耐えて納得しようとしていたからそれでいいんです)

その日は部屋が散らかっていたという理由で、母は寝起きの私に小さめのスパナを投げてきました。……ここ、笑うところです。未だに思い出すとじわじわ来ます。家具とか組み立てるときについてくるやつ。運良くかわせたのでひとまずセーフです。いやでも、当時もさすがに笑ったんですよ。マジで?と。で、そのあとドンガラガッシャーン、と本棚に積んでた本が頭の上に降ってくる。何か最初に一投あって、重いのが後でどしゃどしゃくるのがいつものお決まりのパターンだったんで、即座に布団でなんとか頭守って耐えます。割とね、穴あけパンチとかが当たると痛いんですよ。で、一悶着あって、騒ぎは終了。

結果的に母が追加で散らかしていった部屋が残るわけなんですが、まずこうなってくるといくら部屋が散らかっていることで怒られてても「よし、片付け頑張るぞぉ〜☆」とはならない。いやだってこれ散らかしたの私ちゃうし。普通に散らかってたのが明らかに地震あった後みたいになるわけで、心がついていかないんですよね、そこまで大人じゃないから。色々崩れた下のところで、また大事な何かが壊れているかもしれないし。掘り起こしたくもない。

単純に散らかってるのに怒って追加で散らかしていくのはおかしくない?ということと、いくらなんでも娘にスパナ投げるか普通?とひとりしみじみぶちギレ。これは私の中ではかなりレアな「反抗心」でした。私は友人に恵まれて学校が楽しい子どもだったのでここまでなんとかやってこれていたけれども、家庭内環境的には心がしんどすぎてシンプルに死にたくなることがたくさんありました。母がわーっと怒るのに対応して、傷ついて、すんごい死にたくなってた。自分はなんて害悪なんだろう、死んだらこの家、騒ぎが減るし、母が私の言動に傷つくこともなくなるし、家庭が幸せになるなあっていつも思ってた(もしも自分に子どもがいたら間違ってもこんな想いさせたくないですけどね!!!!!!)。子どもってどうあがいても学校と家庭以外に「自分」を確立させるコミュニティ持つの難しいじゃないですか。でも、自殺とかの無茶をすれば全部終わらせて、この世界から離脱することができるのは無駄に知っている。終わらせられる人間が、かっこよくも見えるかもしれない。

でもこの時は珍しくちゃんと「は!!??????なんなん!!!!ふっざけんなよ!!!」という自分の感情に基づいた勢いがあった。
……出て行こう。
思春期、思想がちょっと過激です。そして珍しく、こっちも冷静じゃなかった。
財布と読みかけの小説だけ握りしめて、携帯電話も置いたまま、静かに家を出ました。連絡取る気ないんですよ。もう断絶なわけだから。このまま行方不明になって死体で発見されてもいいと思ってるんです、この段階では。バカだけど本気でした。そしてやっぱり、根本的なところで自分が全然大事じゃない。
世間は日曜のお昼。マックも本屋もない福岡県の田舎町。漠然と遠くに行きたかったので、まず図書館に向かい、ネットで電車の時刻表を調べました。
目指すはとにかく北。多分南下した方が距離が稼げるところに住んでたらそうしてたと思う。
バイトもしてない高校生、心もとない懐具合、より遠くに行くためには普通電車を乗り継ぐのが最適解だった。
調べたところ、その日のうちに到達できる限界は岡山。まずはそこを目指して乗車券を購入し、見慣れたいつもの通学列車に乗り込みました。

下関を超えるあたりまで、よく分からないんですけど涙が気持ちとは関係なくずーっと出ててちょっと怖かったです。今や18きっぱーなんであのあたりも普通列車で移動したりしますけど、関門海峡超える時、デッドセクションの切り替えとか見たとき、多分死ぬまであの日のことを思い出すんだと思います。雨が降ってて、外がよく見えなくて。岩国超えたあたりでちょっと心に余裕ができて、持ってきた小説に手をつけられるようになった。でも心がずっとざわざわしていて、内容なんて全然入り込めない。指先がどんどん冷たくなっていって、全く読み進められなかった。今振り返ると、なんで小説なんて持ってきたんだろうって思うんですよ。その時の手持ちの荷物って、財布、小説、切符、以上。なんですけど、全ていつか効力が尽きるというか、終わりがあるものなのに、小説だけが、なんだか「終わり」のタイミングを自分で選べて、未来にすがりついてる感じがして未練がましい。当時は年間100冊読む子だったので、なんとなく癖で持ってきちゃったのかもしれないんですけど、家出にエンターテイメントを持ち込むなんて真摯ではないと思うし、読み終えてしまったら、その唯一「続いていく」ものが終わるわけで。心のどこかにある死に向かう恐怖心が、ページをめくらせてくれなかったんじゃないかと。電車が走っていく音の影で、心臓の音が、意味もわからず、ドッドッドッドッと聞こえてました。誰かに何か言われて起こす行動じゃなくて、自分で考えて、自分の判断で起こす行動だったからだろうか。その心が、ゆっくりゆっくり顔を出してきているんだって、身体の様子でわかりました。
……7時間ほど揺られた後。何度か乗り換え、広島駅に到着しました。
長時間ひたすら移動していたので、流石に冷静になってくるんですよね勢いよく飛び出してきちゃったけれども、この先どうするつもりなんだ……と我に返る。この時、完全に、負の感情エネルギーが尽きてしまった。
一回こうなってしまったらま〜、不安な気持ちでいっぱいです。今みたいに乗り鉄でもなんでもないので気持ちの高揚感もないし、ほんとのほんとに知らない街。女子高生、心からの孤独を味わう、です。そしてここは縁もゆかりもない広島。ましてや広島といえば日本でも指折りのこええ街じゃということはなんとなく知っていました(暴言)。外は真っ暗だし、降りても仕方がないので、ひとまずこのまま岡山へ向かいます。偶然にも岡山は、祖父母が住んでいる街でした(だから、その日いける限界が岡山だとわかった時は、大層がっかりしたもんです。決意がぐらんぐらんになる自分が、どこかで想像ついていたんでしょうね)。
完全に心が折れているので、岡山に着いたらひとまず家に一報、連絡を入れよう、と決めました。今振り返ると悪ぶれなくてすんごいださいんですけど、広島岡山間は震えが止まらなかったし、家出というずっとどこかで思い描いていた行動を実際にやるとこんな怖い思いをする、自分は意外と小心者だぞ、と学んだ瞬間でした(友達の家に泊まるとか、そういうかわいいところから始めるべきだった)。
駅に着いたのは日付を超える少し前。公衆電話で自宅に電話をかけるも、留守電につながってしまって、誰も出ない。

おかしい、さすがに誰かいるはずなのに。

念のためもう一度かけると、中学生の弟が出ました。

「はなちゃん?今どこ?」
「岡山」
「は~~、そう。町じゅう大捜索で大変なことになってるよ」

え!!!????

そこで切れる電話。小銭を探すも、もう手持ちがありません。

後から聞いた話では、携帯電話を家に置いて行ったために、消えたことに気づいた後、母が電話帳の友達みんなに、片っ端から連絡を取ったらしかったんですよね。
しかも、地元の友人たちは町じゅうを駆け回って探してくれていたらしい。
これは死ぬほど恥ずかしいし、予想外。

これもどうかと思うんですが、そもそも自分が探してもらえるだなんて思ってないんですよ。心配されてるとは思ってない。まさか他人までもが私のことを探してるとは!ととてもびっくりしたことを覚えています。意外と世間は世知辛くない。

ちょっと違った意味で絶望感マックスで祖父母の家にとぼとぼ歩いていくと、お家がなんだか騒がしい。私が岡山にいるということがわかった両親が、今からそっちに車で行く!と祖父母に電話をかけていたところでした。これを私が家の外から聞いてるんですけど、結構気持ちがめげそうになります。

そこまでしてくれなくていいよ。。。こんなクズ人間のために。。。

からしてみればどうやら「岡山」にいるということだけわかっていて、いてもたってもいられず車でどうにかこっちに向かおうということだったと思うんですが、なんかもうその心意気だけで十分だと思ったし、えらい迷惑かけてしまったなぁとすでに反省の嵐。もう少しクレバーな方法で反抗心をあらわにすればよかった。どたばたしている祖父母の家のチャイムを、今まで鳴ったことがないであろう遅くの意味不明な時間に鳴らして家に上げてもらい、出してもらったお茶漬けをすすりながら自分のアホさ加減に号泣(この日初めての食事でした。空腹であったと気がついたとき、生への執着を圧倒的に自覚しますが、この時ほどお米一粒一粒が美味しく感じたお茶漬けも生涯ありません。今のところ)。心の中におもーい鉛を抱えたまま、翌朝、月曜日。祖父母にお金を借りて朝イチの新幹線で福岡に戻りました。

博多駅まで母が制服を車に積んで迎えにきてくれて(優しい。人間ができている)、そのまま登校することになったのですが、車内の空気の重さたるや。母はいつものように怒るものの、その声にはどこか元気が無く。こちらも色々と積もり積もって起こした行動ですので、嫌な思いましたけれど「多少何か効いたようであれば、この反抗にも意味があった」と、その時の私は思いました。

その日のうちに、着信やメールの履歴を辿って、友人たちに謝りの連絡をしました。岡山にいたことを話すと、友人たちはみんなケラケラ笑っていました。自分たちが探していた場所が見当違いだったのも笑えたのでしょうし、「はなっぽいね」と妙な形で納得されました。何が私っぽいのかは未だによく分からんですが、いい友人ばかりで良かったです。


すると友人のひとりが、驚く一言を電話口で告げたのです。
「探しよる時、おばちゃん、泣きよったばい」

かなり衝撃でした。
なんで?


当時の私には分かりませんでした。

 

そしてちょっと想像します。探しながら泣いてる母の姿を。怒りのあまり泣かせたことは今までにもあったと思うんですが、当時はその事実が漠然と信じられず、そのまま考えるのをやめた覚えがあります。

怒りのあまり泣いたのか。こんなに迷惑をかけて、という悔しさで泣いたのか。
もしくは、突然いなくなった私のことが心配で泣いたとでもいうのだろうか。
どうしてケンカばかりになるんだろうって、そういうことに泣いたのだろうか。
私も大人になったし、きちんと自分のことがとても大事になったので、きっとこういった思いの全部が涙になってこぼれたんだろうな、となんとなく分かります。
でも、思春期の子どもには、少なくとも当時の私にはそれが想像できない。家族が一番めんどくさくて、信用できなかったから。自分がどれだけ大切にされているかだなんて、気づくことができなかったから。

今回、ラジオのメールテーマを聞いてこのエピソードを思い出して、家族とはいえ、大変な迷惑をかけたなあと思い出しながら大反省をしたのです。
あの時母が泣いていたということは、
多分これから先も、知らなかったふりをすると思う。
でも、長い間一緒に暮らしていた家族として、大切に育ててもらったお返しを、今後なんらかの形でできたらいいな、しなきゃだな、と思えるきっかけになったのです。

ちなみにこういうこと以外にも書いたらあかんそうなことも双方にあったし、この家出の後、母との関係はもっと悪くなって一時期すごい大変な思いもしてたんですが、私がちゃんと大人になって、家族に合わせるとか、寄り添うとか、全然できてなかったけど、できないなりにある程度頑張るようになってから、関係は良くなっていったように思います。今は私も実家を出て一人暮らしをしているので、毎日会えるわけでもないし、仲良しと言えるかと。……離れて暮らし始めてから仲良くなっても、遅いんだけど。どうしても人間の性質的なもんで、離れて暮らした方が仲良くできるタイプのこともあるだろう、と考えたりもする。実際にそうだと思う。だからといって、一緒に暮らした、育ててもらった20数年間がどこかでひっくり返るわけでもないだろうし、私は、私という人間は、それが受け入れられる大人になれたというだけで、それがひとつの結果となったのだから。だから、やるんだと思う。どういうことができるのか、これから考えなくちゃいけないんだろうけれど。何かしらの、親孝行というものを。

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