ほだかさんそう

花本ほだかによる総合学習はてな小屋。山小屋の「山荘」と「ほだかさん想」でかけている。

垢分けの美学の話

インフルエンザの学級閉鎖と真夏日が同居するカオスな春、皆様いかがお過ごしですか。

二週に一度の更新ペースを早速守れずおりますが、あくまで目安ということにいたしましょう。目標を下方修正する時いつも、放課後ティータイムの例の楽曲が私の頭をよぎります。私は唯ちゃんが好きです。うんたん。

 

さて、今回のお話は垢分けの美学とはなんたるかについてぼやぼやと日々考えていたことのまとめです。垢分けとは、「アカウントを分けること」の意でありますが、主にTwitterでのお話になるかと存じます。私のメイン生息地がTwitterなので。

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例えばメインのアカウントの他に、鍵をかけて実際のお知り合いだけを集めたアカウントを作ったり、仲の良い、信頼を置ける人だけ相互フォローにしたアカウントがあったりという人は私の周囲にも多いような気がします。

特定の人物に見られてはいけないこと、人間関係的な意味でほんのりバイオレンスな内容を呟く時に有用だったりしますよね。

代表的な例としては、学生時代は自由奔放にTwitterランドを楽しんでいたけれど、就職活動を機にガチャリと鍵をかけて、万が一受験企業の関係者に見つかってしまっても大丈夫なように体裁を整えるなどでしょうか。

加えて、誰からも見られるオープンアカウントはセキュリティの観点でもかなり危ういものがあります。今はもう死語だと囁かれている「〇〇なう」ですが、使い方によっては第三者が場所や状況を特定できてしまったりもするんですよね。より時差がなく、よりリアリティのあるツイートをお届けするためには、そういった鍵アカウントを運用する方が得策であると言えるでしょう。「誰がワシのことなんか特定すんねん」と思ったそこのアナタも!一応気にはかけておかないといけないと思うんですよ。世の中想像以上におかしな人がたくさんいるんですぞ。春だしね。

 

さて、今回お話したい垢分けについての話は、上記のような鍵アカウント運用のお話ではなく(違うんかい)、単純にオープンアカウントをいくつも持っている人に関するお話です。

規制垢や爆撃垢など、ツイ廃と言われる皆さんが普段使うような、本垢単体では収まりきれなくなった部分の補完を担うアカウントとか、意識の高いbioとキラキラした日常生活を振りまき取引で儲けちゃいましょうぜと沢山のアカウントを使って誘って来る謎のギラギラ系あんちゃんとかそういうことではなくて、「趣味嗜好」や「活動」ごとにいくつものアカウントを分けている人たちの存在について悶々と考えたことをまとめていきたいと思います。

 

様々な垢分け

趣味嗜好や活動ごとに、と述べましたが、まずは趣味嗜好の方からまとめていきましょう。

簡単にいうと、その内容のみに特化したアカウントを作成運用するということです。

例えば、ジャニーズ好きの人がジャニーズの話だけするアカウントであったり、アニメが好きな人がアニメの話だけするアカウントなどがそれに当たると言えるでしょう。所謂、おたくアカウントですね。ここから先、さらに細分化することもあって、ジャニーズでも嵐の話しかしないだとか、アニメの中でも名探偵コナンの話しかしないみたいなアカウントも存在するわけです。

次に活動ごとにという分け方ですが、これは何かを作る人に多いような気がしていて、絵を描く人や曲を作る人などが自分のプライベートアカウントとは別に、表現発信、及び交流用に別のアカウントを取得しているケースです。

他にアカウントを分けるケースとしては、グッズやチケットの譲渡、交換先を見つけるためだけのアカウントなどもそれにあたるでしょうか。相互フォローにならないとDMを送れない設定にしている人にとっては、有用なアカウントであると言えるでしょう。

 

なぜアカウントを分けるのか

アカウントを分けるメリットを一応まとめておくと、

  • フォロー、フォロワーの発信交流内容をより集中したものにできるので、TLの話題がそれ一色
  • 仲間や同士が見つかりやすい
  • 関係ない話題をしなくて良い分、仲間や同士と繋がりやすい
  • 譲渡や交換、実際のオフ会など交流関係に持ち込みやすい

みたいなところでしょうか。他にも色々ありそう。

Twitterに関しては個人的設定でいじれるようになりましたが、以前はDM(送信者と受信者のみでやりとりできるメッセージ機能)を送るには相手と相互フォローやら友達にならないといけない設定もあって、雑多な内容を呟く個人アカウントとしては、わざわざこの取引だけのためにTLに私のツイート垂れ流すのって忍びないな……とか思ったりしたもんです。取引終了と同時に相互フォロー解除、という感じでもいいんですけど、そこから仲良く交流していけるケースだってあると思うんですよね。そういう時アカウントを分けていると大変便利だと思います。

断固としてアカウントを分けない人たち

対して、こういう皆さんも現れてくる、と。

私が今回語りたい本質はだいたいこの人たちの存在についてなんですよね。強い。黄金バットくらい強い。

何がそう強いのかと言いますと、「私という人格はいくつもの好きが重なってできているものであるからして、そう安安と分類など行ってなるものか」という屈強な精神の元、あれもこれも全部、同じアカウントで垂れ流してやんよ!というそのマインドです。

加えて、あわよくば、Aについての私をフォローしてくれている人に、私が好きなBとかCも布教しちゃおう!!みたいな感じなんですよね。

私、そういう推しが強い人好きです。

分割化される個、できない個

そもそも、日々SNSで推したり推されたりしていく中で、何につけても単推しな人間っていないと思うんですよ。当たり前だけど。

和食アカウントの人も洋食や中華を全く嗜まないかといったら違うし、本当はご飯を食べること自体が好きで、中でも和食なのかもしれないですよね。というかそういう場合が多いと思います。

それ専用のアカウントを作ることで得られる交流のしやすさっていうのはもちろんあるんですけれども、アカウントを分けてしまうと個人が分断されてしまう気がするというか、普段の私と出張中の私ができてしまって、普段の私を完全に分割化しきった時に、「あれ?私の居場所ってどこだったんだっけ?」と不器用な思考に陥ることだってあるように感じるんですよね。そうならないために個人の総合的な、「本垢」を運営し続ける人もいるし、分割化された世界で個を発揮していく人たちだっているんだよなあ、としみじみ考えてしまうのです。というか全部分けちゃう人なんて多分いないんですけど。何個アカウントもつねんと。

垢分けは美学

 こんな風に考えていくと、垢分けってもう美学の領域だなって思ってしまうんです。

強制するものでもされるものでもないし、心理的にできる人とできない人がいる。

私という「個」を分割化していくことにかなり抵抗がある人だっているんじゃないかと思うんですよね。だって、その分割化されゆく思いが、全部ひとかたまりになって初めて「個」になるのだと思うから。

なんだかそんな風に考えていくと、不思議な不思議なTwitterランドがもっと面白く見えてくる気がするんです。

 

 

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。

 

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